妊娠中の旅行(マタ旅)は米国でOKとされるか?〜新生児専門医の視点から考える〜
さて1月2本目です。
新年はいかがでしょうか。日本では正月3日間は休みですが、米国では1/2から普通に仕事で、正月気分もあっという間に吹き飛んでしまいます。
今回は妊娠中の旅行についてSNSで盛り上がっていたので、この辺りをまとめたいと思います。
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発端
今回の発端はある医学部の教授による一つの記事でした。
この記事は妊娠中の旅行、いわゆるマタ旅についての見解を述べたものです。
話の趣旨としては日本の産婦人科医はマタ旅をするなと患者に指導する事が多いが、これは千葉県のテーマパークに関する論文を元にして話す事が多い。しかし、これらの見解は世界のデータや文献とは異なっているという主張を渡航医学の観点からなされたという記事です。
確かに渡航医学という観点からこの問題を見た事はなかったので、読んでいて非常に斬新な記事だと個人的には感じました。
しかし、記事後半のこの部分がSNSでは大きな反感を買ったようです。
正義感が強く、「人が好き」で、「正しい医療」にこだわる医者ほど、その陥穽かんせいに陥りがちで、「医学的に正しいから」と妊婦に旅行するな、などと言いがちだ。
さて、妊婦の渡航に関する安全性の検証研究や、「安全性を高めるための」研究、教科書的な記載やCDCのガイダンスなど、文献は多々存在し、妊婦の安全な旅行に寄与している。なぜ、日本の産婦人科医はそういうデータや文献を参照しないのか。それは、産婦人科医のほとんどがトラベル・メディスンという専門領域が存在することを知らなかったためではないか。
こうした他領域同士のクロストークがないこと、これも日本医療アルアルの問題点だ。「医局」に代表される縦割りの習慣がここにある。妊婦のことは産婦人科の専権事項、外野は口を出すな、という雰囲気はなかったか。トラベル・メディスン専門家の過度な遠慮、忖度そんたくがそこにはなかったか。年頭に大いに考えてみたいものである。
これに対してX上の産婦人科の先生方が猛反発します。
緊急時に病院にエクストラで診療報酬が上乗せされるのであればともかく、微々たる保険診療内でリソースの脆弱な小児科・産科の地域医療に負担をかけてしまうことが問題ではないでしょうか?
端的に内容をまとめるならば、
「海外では特別な配慮さえすれば妊娠中の旅行を許可しているのだから、日本の産婦人科医は合理的な判断ができていない」
といったところ。
正直なところ、岩田先生がこのように無理解な記事を書かれたのは残念極まりない。…
私も産婦人科医ではありませんが、新生児の立場から周産期医療を行う者として先生方のご意見に賛同しています。
一方で旅行先のNICU病床が足りないという指摘だけでなく、新生児専門医なら赤ちゃんの健康という立場から検証しなければいけないと考えています。
そこで今回はマタ旅を新生児医学の側面から検証していきたいと思います。
マタ旅が赤ちゃんにもたらすもの
最初に言及しておきますが、これはSNSでも産婦人科の先生方が言及されていましたが、我々周産期医療者は「妊娠中の旅行を全面的に禁止にはしていない」という事です。基本スタンスとしては、頻度によりますが、移動1時間以内の小旅行なら気分転換に良いのではと指導されている先生方が多いと思われます。
これは移動に伴って妊婦や赤ちゃんに与えるストレスというよりも、何か不測の事態が起きた時に手遅れになる事が懸念点として挙げられます。
妊娠は不測の事態がいつでも起こりうるものですから、もし遠方だとかかりつけ医まで帰って来れないどころか、医療インフラが不測している地域ではNICUが満床かもしれない、夜間に分娩を取れるところが無いかもしれない。そういった心配があるのです。
不測の事態を新生児医学の点から見ていきましょう。
まず真っ先に挙げられる不測の事態としては「病院外での出産」があるでしょう。
突然陣痛が始まるも、地域によっては夜間に分娩する病院が見つからず出産を余儀なくされる事もあります。これもよくある事なのですが、車の中で生まれてしまったというパターンもありますし、早産の場合には施設が整った病院で分娩がなされるはずが、病院外であるクリニックで生まれてしまったパターンもあります。
ここで日本の新生児データベースを用いた研究の結果を1つ紹介しましょう。
日本の新生児データベースであるNeonatal Research Network of Japan、通称NRNJに登録された2012-2016年に生まれた体重1500g以下の赤ちゃん15842名を対象とした研究では、病院外で生まれた赤ちゃんと病院の中で生まれた赤ちゃんの間で合併症を比較しました(#1)。(尚、両群の背景の違いを調整するために出生前因子はIPTW法で調整していますが、この解説は少し専門的になるので本編では割愛します)
その結果、以下のような結果となりました。Outbornが院外出生、Inbornが病院内出生の赤ちゃんとないます。
この表では1番右の欄でOR(95%CI)というものがありますが、超簡単に言うとこの95%CIの数字が1をまたがないものは両群に有意な差があると言う事を示します。
この視点で見ると1行目の「Severe IVH」( 重症な脳室内出血)と6行目の「Pulmonary haemorrhage」(肺出血)が院外出生の方に多い事がわかります。重症な脳の中での出血も肺からの出血も赤ちゃんにストレスがかかった状態で出る合併症ですから、いかに病院の外(車中分娩やクリニック等のNICUがない施設での出産)は生まれてくる赤ちゃんにストレスがかかるか理解していただけるかと思います。
では早産でなければ大丈夫かと言うと、決してそうではありません。
出産予定日に近い週数の正期産児は新生児仮死というストレスがかかった状態で生まれるとそのストレスが胎児の脳に炎症を与え、脳組織を破壊してしまう「低酸素性虚血性脳症」という病気も起こりえます。これは子どもに麻痺を残す脳性麻痺の主な原因の一つです。これには全身を冷やす低体温療法という治療しかありませんが、残念ながら大規模施設でしか行うことができない治療になります。また生まれてから6時間以内に開始しないと適応外になりますので、大規模施設にたどり着けない場合には、赤ちゃんに障害が残る確率は格段に高くなります。
新生児医療をしていて個人的に何もできないと思うのは、胎児母子間輸血症候群です(#2)。これは難しい名前が付いていますが、一定の割合で遭遇する疾患です。怖いのは誰にでも起こりうる事で、妊娠経過が順調でもある日突然起こります。
これは何らかの原因で、胎児の中の血液が臍の緒を通じてお母さんの方に流れて胎児が極度の貧血に生まれてくる疾患です。これは総合周産期センターで働いていると一定の割合で遭遇します。
この状態で生まれてくると通常の新生児蘇生を行なっても蘇生することはまずできません。なぜならヘモグロビンが1%台や2%台と信じられない貧血のため、真っ先に輸血をしないと救命できません。
この病気の場合、赤ちゃんは多くの場合、血液が無さすぎて肺の血管もペシャンコの状態で生まれてきます。それは血液が十分に行き渡っても継続するので、重度の肺高血圧の状態として生まれてきます。血管を広げる作用のある酸素だけでなく、一酸化窒素を投与する必要があります。これらはNICUがある病院でないと救命する事は難しいでしょう。
このように、妊娠はあらゆる不測の事態が起きうるし、それが1分1秒を争う状態であると言う事です。これらを見てきた医療者だからこそ、このように啓発するのです。
自分は地方の石川県の総合周産期医療センターで働いていた事がありますが、能登半島の先でこのような赤ちゃんが生まれた時には陸路で往復4時間以上かかります。例えば能登半島で不測の事態が起きた時には6時間以内という先程のタイムリミットに間に合わない可能性があります。この事態の結末を背負わされるのは赤ちゃんです。赤ちゃんの人生が変わってしまうのです。
米国ではマタ旅はOKなのか?
では、米国ではマタ旅はどうなのでしょうか?先程の記事に米国においてマタ旅はOKという記載がありました。
例えば、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の渡航・妊婦の項を見ると、「妊婦は特別な配慮が必要だが、ちゃんと準備すればほとんどの妊婦は安全に旅行できる」とある
確かにこのような記載があり、日本で行われている指導と違うなと感じられる方も多いと思います。
これには3つの理由があると考えられます。